2019年1月:橿原神宮探検記

橿原神宮境内にある深田池を、半島のようにせり出した一角に古墳群があると言う。とりあえず「橿原神宮古墳群」とここでは呼ぶ。奈良県立橿原考古学研究所が「奈良県遺跡情報地図」をネット上で公開していて、あまり取り上げられていない遺跡を調べるのにとても便利だ。
今回は、橿原神宮古墳群を散策し、畝傍山を西側から登って降りる。

深田池は今日も鳥の群がりっぷりが半端なかった。足音が近づいて来たと見るや、こんな風に「エサが来た、エサが来た」と水しぶきをあげて続々と着水してくる。

深田池の真ん中に橋がかけられており、橿原神宮古墳群の眠る島へとつながっている。この橋を渡っている間も、「エサ?」と鳥が近寄ってくる。もう少し減少してくれれば静寂で落ち着く水辺となっただろうに。
そう思いながら肩をすくめていると、やがて、島が見えてきた。

確かにいくつか盛り上がっていて、古墳のようにも見える。しかし、発掘調査があまりされていないのか、情報がない。深田池について説明看板には「築造時期は不詳であるが(略)奈良時代には築造されたと伝えられている」とあやふやではあるが説明が載っており、信じるなら、畝傍山の尾根の一部と思われる橿原神宮古墳群は奈良時代に深田池によって切り離されたのだろう。そして神宮拡張でさらなる破壊を…。しかしながらこの島が残っている事には不思議さがある。

深田池を出て、畝傍山麓を沿うように西へ迂回し、畝傍山へと入って行く。入り口の目印は、無人喫茶店。100円でインスタントコーヒーが頂ける素敵なお店なのだ。会ったことのない店主は、クラシック音楽が趣味のようでたくさんのレコードが飾っている。

今回は、散歩道から外れて頂上へ一直線に登る方法を選択。「全ての道はローマに通じる」とも「道なき道を行く」とも言うではないか。
この道は獣道ではないようだ、集中豪雨の一時的な溝なのだろうか、神宮拡張時の工事の通り道なのだろうか。

倒木の生命力の輝きに圧倒されるカシ女。ほんの僅かばかりの根が地面にしがみついている程度なのに、上に、上に、と枝がすくすく伸びて、一本の木になろうとしている。しかし、母体が支えきれずそのうち全てが朽ちていくであろう。

恒例の耳成山をご参拝。畝傍山の北東に位置する。バックの連峰は、俗に言う「山の辺の道」を麓に抱える。

そして、今日も神々しい金剛山系連峰の葛城山に、恐れおののいてみる。

頂上から畝傍山の西側、大谷集落へ降りる。梅の花が咲いていた。もう春が近づいているのか。
畝傍山の西側は地震で地層が崩落し「馬蹄形」というなだらかな地形になっている。そこに田畑や集落を形成していった。

大谷集落を横切り、畝傍山口神社へと入って行く。地元のかたが今も絶えず訪れている形跡の見える、きらびやか過ぎない、このような神社の雰囲気が大好きだ。

この畝傍山口神社はもとより畝傍山西麓に建っていたが、貝吹山に築城した越智氏が「神社を見下すのは恐れ多い」と畝傍山頂に遷座させた。そして橿原神宮造営の時に「神武天皇を見下すのは恐れ多い」とて、再び西麓へ移された。見下されたり見下したりと、時代の解釈によってせわしなく引っ越しさせられた神社なのであった。

遠く葛城山を無心で眺めていると、石灯篭が灯りを燈しだした。もうこんな時間なのか。
もうひと踏ん張りして、「新中華料理 花林」へ夜ご飯を食べに行こう。「中華の冒険レストラン」と銘打っているだけに、変わったメニューが並んでいる。今日はネギラーメンと天津飯、よだれ鶏を注文。のらのわ卵を使った自慢の天津飯らしい。

もうすっかり夜になっていた。畝傍山が真っ黒な影と化している。