2019年2月:橿原市見瀬町ぶらり

春の爽やかな陽気に誘われて午後から近所散策へ出かけました。
高取川から眺めると、近鉄南大阪線の橿原神宮前駅〜岡寺駅の区間にはなだらかな丘陵がずっと続いていて、それが畝傍山につながっているように見えるのです(ピンクの箇所)。
あの丘陵の木々をかき分け入ったら、何かがありそうな気がする…気になって気になって。この足で歩いてみようではありませんか。

見瀬近隣公園からの眺めです。丸山古墳が向かいに見え、その奥は飛鳥村になります。公園では、子供たちがおままごとをしていたり、遊具で遊んでいました。

同じく公園から西を眺望すると、目一杯に広がっている団地の後ろに貝吹山がそびえ立ち、後光のような夕日が山を覆うように迫ってきています。
貝吹山は、14世紀に越智氏が山城を構えていて、今でも遺構が判るという(何回か行っているのだけど、よく分からなかった)。
その貝吹山の支城かどうかは分かりませんが、牟佐坐神社の少し南側には「見瀬城址」の碑が建っている空き地があります。今はもう住宅に囲まれてしまい、丘陵の形だけでしかよすがを感じる事ができません。

公園から畝傍山方面へ尾根沿いに歩いていくと、丘陵を切り通した小道がありました。公園や墓地の高さから見ても、この小道を通すためにどれだけ削られたかがよく判ります。見瀬丘陵(仮称)には、このような小道がいくつかあります。丘陵の西側は昭和初期に盛んに開発された新興住宅、この写真の道の奥(東)には古い町並みが広がっています。新興住宅地のところは飛鳥時代は川の流れを堰き止めた巨大な池があったので、おそらく、地盤の堅固さが違うのでしょう。

墓地の奥にお寺がありました。日本山妙法寺と初めて聞く名前だったので帰宅してから調べたところ、法華宗の一派で平和運動が盛んな宗教だと知りました。なんと、成田空港闘争にも参加された事があるとのこと…。とても活動的なんですね。

お寺の先も細長い地形が続き、お寺の後ろには八幡神社がありました。お手入れの行き届いた神社です。そして言うまでもなく、見瀬丘陵の古い町並みが並んでいる東側に、この神社は顔を向けています。
説明看板によると、創建は不明ではあるが徳川時代に応神天皇軽の豊明宮址とされ、明治には豊明神社とも称されていたようです。この辺りに応神天皇の宮とは?勢力基盤があったとは思えませんが、「宮」が現代の感覚とは違っていた事を考えてみると、ありえるのかも。

八幡神社を横から撮ったもの。丘陵の斜面を削平した立地だという事が判ります。本殿は、拝殿のうしろの崖上に建っていて丘陵の尾根にあります。

本殿のそばの盛土です。かつては縄張りがあったかもしれないと想像させてくれる地形でした。

古い町並みから丘陵を眺めます。少し木が盛り上がっているあたりに、さきほどまで居た八幡神社があります。改めて丘陵の高さがそれなりにあるのだと実感しました。
ここからは、丘陵のふもとに沿って、見瀬近隣公園方面へ歩いて戻ります。

しばらく南へ歩いていると、見瀬丘陵は下の写真のように途切れます。撮影地点がピンク色の丘陵で、奥に見える森が牟佐坐神社で緑色の丘陵(南見瀬丘陵)です。この間の切れ目を流れるのが高取川で、写真の一番低い部分になります。
高取川のカーブが不自然なことから、川が丘陵の境目を削っていったとは考えにくく、一番の可能性として考えられるのは、見瀬丘陵の西側の平地がほとんど人工池であったことから、池へ注ぎ込むために丘陵を削って川を無理やり曲げたのではないかという事です。

丘陵のゆるやかな斜面と古い町並みが織りなす落ち着いた風景がどこまでも続き、春の夕暮れの少し涼しい風が身を清くしてくれるようです。
清々しさに足も軽くなり見瀬町を散策します。古い町並みなだけあって、お寺も多くあります。そういえば、丘陵の反対側の団地にはお寺も神社もないんですよね。
そんな中、1つのお堂に目を奪われてしまいました。「五輪堂」。ネットマップにも載っていないお堂です。

かなり見瀬丘陵から降りてきたと思ったのだけど、まだ斜面がはっきりしていて、五輪堂の背後の家々が低く見えます。
五輪堂と名乗るだけあって、正面の立派な五輪塔が我々を見据えているかのように建っています。その隣には庚申塔や石碑が並んでいます。開発で移動してきたのだろうか?この五輪堂のいわれは?絵馬が2枚飾られていましたが、何も語ってはくれません。

まだ陽の暮れが早い季節です。引っ越してきてもうすぐで4年目になりますが、近所でまだまだ知らない風景がたくさんあることに気づかされました。今度はあそこの道を通ってみよう、あの丘の向こうに行ってみようなどとおしゃべりしながら、帰ことにしましょうか。