2019年6月:矢田寺あじさい祭

緑の映える季節となり、浮ついた気分がどこかへ出かけたいという気持ちを強くさせてくれます。
今回訪れたのは「矢田寺」と呼ばれる大和郡山市のお寺で、6月から7月はアジサイが見ごろで臨時バスがでるほど賑わうところです。私たちにとっては「地蔵信仰発祥の地」「閻魔堂」という言葉が非常に興味をそそるものでした。
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バス停留所からかなり歩いてようやく表参道らしくなってきました。お地蔵様の後ろにも数多の小さなお地蔵様が控えていてお出迎えしてくれました。本日は天気も悪く、アジサイはまだ早かったのでしょう、観光客も出店もまばらです。

料金所近くの墓地にあったもの。御坊の方に尋ねた所、地元の人が習慣的にやっていることで良く判らないとの事でした。活けている花が新鮮なので日常的にお参りしているのだと思いますが、これが置いてある場所が高台にある墓地から階段で降りたところなのです。墓地ではなくなぜここに?と謎は深まります。

「矢田山金剛山寺」が正式名称である事からも判るように、矢田山の中腹に位置しているためどんどん上がっていきます。ぱっとしない空模様とは対照的に、初夏の新緑がまぶしいです。

石垣と石階段で整備された道は、乱雑さが少し入り混じるがゆえの美しさがあり、優雅にそして軽やかに歩むことができます。その参道を登っていくにつれ、思いも寄らなかった矢田寺の面白い一面が見えてきます。「三尺組○代目」という肩書を持った方々の墓石が立ち並びます。ただ、二代目は名前の違う2つの墓石が並存し、「三尺組」と「大阪三尺組」となっていたので縄張り争いのような事があったのかと想像が膨らみます。そうです、「三尺組」とは「的屋」の元締のことだと教えてくれました。

他にも少数ですが力士や役者の墓石もありました。力士は「門弟中」、役者は「連中」なのですね。三尺組と矢田寺とどういう絡みでここに建立しているのか。

寺内に入ると、まず目に入るのが正面の矢田寺で、下写真が、続く道の脇に控える大門坊と沙羅双樹です。山からの湧き水で満たした御手水には「大阪 他力講」と彫られていました。この塔頭が最も地蔵信仰を濃く残している塔頭なのかもしれず、現に千体地蔵尊を安置する千仏堂がありました。
少し陰湿な煙のこもった塔頭の中で、小さく間仕切りされた地蔵堂が壁一面に広がっているのです。地蔵の数の多さが厳かなる空気を生み出し、来るものの背筋を正してくれる、そのような場所でありました。この千仏堂が昭和55年建立と新しいことと、絵馬が目一杯飾られていた事には注目に値しましょう。

こちらは「念仏院」と呼ばれる塔頭です。土産とお茶をやっていました。そばに石碑が三本建っており「奉供養大峰山先達奥通修行紀念碑」「稲田 地蔵講物故者追善」「奉寄進御供田 五畝拾歩 信心講 大阪城東今福」とあります。様々な講集団によって成り立っていたことが伺えます。また大正15年建立の先達の石碑については、修験道が関係しているのも高野山真言宗「金剛山寺」が正式名称であることからも納得がいきます。
こちらは元は「下の念仏院」と呼ばれていたのですが、「上の念仏院」は火事で焼失してしまったと教えてくれました。

そして矢田寺の本堂です。特別拝観期間中でしたので重要文化財に指定されている仏像を拝み、展示してあった阿弥陀如来と過去帳についてボランティアガイドに尋ねると「元は上の念仏院にあったもの」との事でした。
また「矢田地蔵縁起」と解説を読むと、なぜ寺内に春日社があるのかも理解できます。思った通りの地蔵像が彫れなくて悩んでいると、春日社明神がやって来て彫ってくれたという縁起があるそうです。このような絵巻は、地獄の業火の勢いが強く描かれるほど、降り立って罪人を救う地蔵様のお姿には一層感動を与える効果があったことでしょう。

本堂の北側に建つ「北僧坊」です。残念ながら平成5年5月に焼失してしまい、残されたのは書院などほんのわずかだったと言います。北僧坊のパンフレットを頂いたのですが永代供養堂とお食事のご案内しか記載されていませんでした。火災後の復興も含め金銭的に大変なのでしょう。
僧坊は元来は僧侶の住居地域で、書院に至っては豊臣秀長が遊居するために大和郡山城から移築したものだそうです。

昼ご飯は、北僧坊でいただきました。素揚げした野菜を乗せた一般的な和風カレーで、味うんぬんよりも綺麗な畳部屋で食べれるという雰囲気が良かったです。残念ながら大和盆地一望というわけにはいかなかったのだけれども。

昼食後は、閻魔堂、南僧坊を通って、裏山の矢田山に登っていきます。閻魔堂を覗くと顔を真っ赤に塗られた閻魔様が見えました(特別開扉期間のみ)。
矢田地蔵縁起によると「小野篁は昼は嵯峨天皇に、そして夜は閻魔王に仕えるという不思議な方だった」と言うことと、「閻魔王は人々の裁きに心を痛ませていていた」と描かれているのです。現代人がもつイメージとは違う人物として捉えているのが興味深いです。

さて裏山には八十八ヶ所遍路道があり踏破するつもりでやって参りました。
案内看板によると、大正14年に大阪接待講・他力講・延命講・いろは講・信心講の発願により開設されたとのことで、今まで見て廻った講の名前がここにも出ました。しかしその後、荒れたのを整備し直したのは矢田地蔵講(地元と思われる)と保存会、篤信者、ボランティアだという。時代の移り変わりが読み取れますし、大阪の富豪と矢田寺の結びつきが弱まったのかと誰かに聞きたい衝動も多々湧いてきました。(さすがに聞きにくい)

矢田寺の中興の祖、そして地蔵信仰によって矢田寺を隆盛させた満米上人の供養塔(?)です。廻りを取り囲む石柱の観察に夢中であまり仏像は見てなかったのですが、でもそのおかげで面白いものが見れました。石柱のひとつに、「宿坊 念仏院」と彫られていたのです。これはここだけではなく、もっと下ったところに大正15年に大阪同(月?)人講によって建立された祠があり、薬莢をかたどったものがあったことから日露戦争の同期の会だと想像しています。すっかり荒廃していますが、囲む石柱のひとつにも「宿坊 念仏院」と、同じように彫られていました。
宿坊の役割もあったんですね。上か下かは知る由もないのですが。

振り返ってみると、大和盆地が広がっていました。あの連峰は山の辺とつながっているよね?横たわる森林は何なのだろう?今度、時間があったら見に来てみようか・・・相棒と語りながら下っていきます。

少し早かったものの、せっかくあじさい祭りの時期に来たので、あじさい園も回ってみました。そんな中での一番のお気に入りの写真が下写真です。
写真左端の一番大きい地蔵像が「みそ舐め地蔵」と言って、口に味噌を塗るとおいしく仕上がるんだそうです。口元が真っ白なお地蔵様でした。

謎が謎をよぶ矢田寺。なにゆえ真言宗であるのか?なにゆえ三尺組であるのか?そういった疑問が見えやすくされているのが矢田寺の魅力といえるのではないでしょうか?