2019年7月:田原本町ぶらり

去年くらいからだろうか「田原本町に道の駅が新オープン!」というポスターが畿内を乱舞していた。その時から行こうと思っておったのだが、1年経ってもまだ訪れることができてはいない。本日は皆の憧憬の的である田原本町の道の駅へと向かってみる。

田原本町とはその名の通りの地形で、大和盆地のちょうど真ん中にある。古来より続く低湿地帯は米という大自然の恵みを産みだし、近世においては寺川、大和川の大自然の流れを利用した水運が活発となり、現代でも橿原ー京都、桜井ー大阪を結ぶ国道が錯綜する重要な立地なのである。
電車内で田原本町のパンフレットを漁っていると「姫島家文書展」なるチラシを発見。これは田原本藩の家老職である姫島家の江戸時代を通じての文書展で、すでに2年ほど前のものであった。まずはこの文書展について田原本町駅前にある観光案内所で聞いてみる事にした。
案内所の人は親切な人で、この企画を主催している「田原本町をすきになる会」の人はすぐ近くに住んでいるので訪ねてみなさいと教えてくださった。私は喜び勇んで「すきになる会」へと足を運んだのだが、残念ながら祇園祭りのため忙しいとのことであった。

そう、この日は大和においての一大イベント祇園祭りが開催されていたのだ。私はそんな祭りがあることなど露知らず、赤提灯と緑のプラ笹を交互に飾りたてた道、そして浴衣姿の多さに不信感を持ち疑惑の眼差しを周りへ向けていたのだった。
駅前の居酒屋はまだ昼であるにも関わらず営業をしており、たこ焼き屋なども大盛況だ。
近世の名残を残す狭い小路にくまなく民家が立ち並ぶ。そのところどころの民家で唐揚げやら焼き鳥、ビール等を販売して大賑わい。
メイン会場の津島神社にはズラッと屋台が出店し、通るスペースがないほど人で混み合っていた。津島神社の裏にはイベントステージも設置されており、有名人なんかもくるそうだ。

私は祭りが目当てではないのでチラッと見ただけで満足し先へと進んだ。

田原本町は、賤ヶ岳七本槍の一人である平野権兵衛長泰が、ここで五千石の領地を貰い陣屋を置き支配していたという。
駅のすぐ東側に津島神社が存在し、そこから北へ一町ばかり行った寺川沿いの場所に陣屋があったそうだ。現在は町役場となっているが、陣屋跡という遺構は特にないそうである。
参議院選挙で忙しそうな町役場をしりめに私はさらに北へと向かった。
しばし歩くと「鏡作坐天照御魂神社」へと到達する。由緒書きによると、古代から江戸時代にかけてこのあたりには鏡作師が住んでいたといい、鏡の神様として全国で最も由緒の深い神社である、とのことだ。
こちらの社殿はかなり立派になっていて、寄付のすごさを物語っている。寄付された灯篭には江戸時代の年号のものがあり、そこには「鏡屋中」と書かれていて、昔から鏡屋がお詣りしている様子がうかがえる。また、現代も鏡やガラスといった会社が多く寄付をしているようである。

鏡石という石の真ん中に鏡の跡がついたものが祀ってあった。江戸時代に神社内の池より出土したらしく、鏡の跡を石に彫り、固定して研磨したと推測されると説明されていた。
最後に釣鐘や鏡会館をぶらりと見てまわり鏡作神社を後にした。

鏡作神社を出て道路を挟んだ南側にも小さな神社が鎮座していた。神社の鳥居をくぐる時にでっかい犬の人形が視界の隅に入るのでギョッとしてしまうが、こじんまりとした作りが好印象の稲荷神社である。
境内の隅に「松永大明神」という神社があった。田原本の少し南の新ノ口に「信長大明神」という稲荷神社があるのと関係しているのだろうか?

ここから東へと向かい寺川を渡った対岸にある鏡作麻気神社を目指す。

国道に面しているものの田に隔てられているため小路でつながっているだけの神社である。
現在の祭神は麻比止都称命で鍛冶の神らしいのだが、元々は子安大明神と言い、神仏分離後に社名を変更したという。また、この付近の字名が小坂・今里・八尾であることから東大阪とも関係し、鍛冶の祖がここから発祥したであろうことが書かれていた。
しかし、元が子安大明神であることから考えると、本当に鍛冶の神を祀っていたか怪しいものである。

麻気神社からさらに三町ほど北へ行ったところに今回の目的地である道の駅が立地していた。宣伝効果もあり少しワクワクして入ってみたのだが、少し小さめのただの道の駅で、一階が食料品、二階が喫茶店、三階が展望台と少しの展示、となっていた。田原本だからといって特に何かがあるわけでは無かった。
全体を見回した後、ガッカリした心境で建物を出た。そして、向かいにある唐古鍵遺跡館を見学する。館内には発掘の柱跡の展示があり、唐古鍵遺跡とはなんたるかをビデオで放映していた。少し涼みに入るにはちょうどよいところであるが、よほど発掘好きでないとつまらないところかもしれない。

唐古鍵遺跡公園は一町四方ほどの広さで、写真のような説明看板が公園内のあちらこちらに設置されている。その説明看板を見ながら公園をぐるりと回ってしまえるようにできている。
説明看板によると、唐古鍵遺跡は紀元前300年〜紀元後200年くらいまでの集落遺跡で、村の周囲に幅5〜10mの環濠が幾重にも巡らされ、集落内部では石・木・青銅器も生産していたそうだ。また、地方との交流もしており、岡山や静岡などの土器も出土しているそうだ。
説明看板を見ていると年代に幅を持たせすぎているように感じた。「科学的な調査に基づ」いた結果に300年ほどの誤差は当たり前にある感じなので、かなり大きく誤差を見積もって見るべきかもしれない。

復元されているものはこの唐古鍵のメインテーマである楼閣だけであるが、これだけ、というのがかえっていい雰囲気をだしている。少し残念なことは国道沿いの立地なので車の音がうるさいことである。

帰り際立ち寄った浄照寺では住職の方が居て、戸締りをするついでに中もどうぞご覧になってくださいと、本堂へと案内してくれた。
豪華な阿弥陀如来像の脇には掛け軸があり、蓮如・良如・鏡如が飾られていた。
鏡如は明治時代のこのお寺の住職でシルクロード研究などをしていたらしい、特別に如来像の脇に飾っていると住職が教えてくれた。

日暮れ後も祭りの最中の熱気が続く。狭い小路で踵をかえしながら今回の事を思ってみる。道の駅というものはやはりつまらない、これからは騙されないぞ、と心に誓い、涙をぬぐうのであった。