2019年7月:当麻寺ぶらり

ぶらり旅には當麻氏がつきものである。なぜなら高田周辺の低湿地帯までの広い土地が當麻氏の領土であったからだ。私はいつしか當麻氏のとりことなり氏寺であろう当麻寺へ詣でる事が生涯の目標と相成ったのである。

当麻寺は二上山の裾にある麻呂子山が伸びきった場所に位置しています。やや南のひと山隔てたところを竹内街道が走り、なんらかの関係があったのではないかと思わせてくれます。

当麻寺駅より二上山に向かって西へずっと一本の道が続いており、これが現在の参道になっています。街道に並ぶ旧家、ところどころに食堂や陶器屋などがあり、相撲会館といふところもありました。
創建当時はこのように東西の道ではなく、南北に道が通っていたとお寺の案内人は話していました。理由としては、当麻寺のかつての本堂であった金堂は、南面してそびえ立ち、東塔・西塔と名付けられた塔が金堂の両側に建っているからです。

現在でも山麓線という国道が當麻〜五條をつないでいます。大和川を通ってくる集団と紀ノ川を使って五條を通ってくる集団が、ここ二上山の麓を通る竹内街道で合流し、東へと足を伸ばしていたのかもしれないし、二上山付近が物流の中継地点になっていたのかもしれないし、色々と想像をかきたててくれる場所であります。
道中で見かけた、私を歓迎してくれている蓮の花。私は花よりもハチの巣のような実の方が気になって仕方がない。

昼ご飯は山門前のソバ屋「薬庵」にて。古道具のタンスや鈍い光を放つ陶器などで雰囲気を作っていて、店の中央には一枚ものに見えるテーブルが置いてある。奥には座敷もあるようでした。

ご主人のお勧めである田舎ソバとソバ刺身をいただきました。ソバらしい滋味があり、噛めば甘みがでてくるという二味の両立。さらにはかなり細く切っているのにモチモチとした食感、そして喉ごしの良さも両立しているのです。ソバ刺身のツルツルっとした食感も非常に美味しかったです。
ただ、量が少なく体力を消耗する時期にはむいていません。その点は物足りないのですが、あまり食べ過ぎても飽きてくるので難しいところですね。

腹を満たし、店を出てすぐの寺へと足を運びます。ハチの巣が育ってしまった仁王象がある山門をくぐり抜けると広い境内になっており、奥に曼荼羅堂・金堂・講堂があります。その手前には中之坊、北側には大師堂がありました。

気を付けなければいけないことは、坊ごとに入園料がかかってくることです。曼荼羅堂・金堂・講堂は3か所共通券があったのですが、中之坊や浄土庭園、奥の院庭園などといくつにも分かれていて、それぞれに料金を支払わなければならないようでした。

今回は曼荼羅堂・金堂・講堂の3か所に入ってみました。写真が禁止なのは残念でしたが、迫力のある厨子や仏像がたくさん展示されておりました。
曼荼羅堂では名物の文亀曼荼羅・裏板曼荼羅があります。中将姫が蓮糸によって編んだと言われる蓮糸曼荼羅は、現在こちらには無くどこかの博物館の展示の時にしか見れないらしい。代わりにそれを室町時代の文亀年間に転写したものが飾られています。暗くて曼荼羅の良さがあまり分かりませんでしたが、源頼朝や北条政子らの寄進名があるという厨子の迫力はすごかったです。
曼荼羅の裏側にもお供えがあったのでなんだろう?と思っていましたが、元々裏側に曼荼羅が貼りつけてあったらしく、板から完全に剥がれないで残ってしまったものらしい。現在は扉が閉められており見れませんでしたが、4月13日〜15日の間は見れるようです。
講堂には籐原時代?(藤原時代?)の仏像が飾られており、金堂には白鳳時代と鎌倉時代の四天王が飾られています。金堂の仏像は中国人が作ったものが多いらしく、講堂と本堂との仏像を比べてみると作風が違っていて面白いとおっしゃっていました。
確かに中国人の方が力強さがでたような感じがあり、着ている鎧も中国風に見えました。少し気になったのが三鈷の持ち方です。日本ではかなり手首を内側にひねって持つのですが、中国人が作った仏像でも少し柔らかくひねって持つのにびっくりしました。

最後に大師堂を見学していきます。「奈良文化財研究所」がなにか研究しているようでプレハブ小屋が建っていましたが、人がいなかったので何をしていたかは分かりません。
このお堂周辺には首を切られた地蔵たちが悲し気に飾られておりました。大師堂の裏山にあったひときわ大きい大師像も首をすげかえられております。付近の地蔵たちを集めてきて祀っているものと思いますが、この辺りが廃仏の激しかったところだと初めて知りました。

大師堂の裏に入るとお寺の人が見廻りに来ましたが、大師像までは見ても大丈夫だと思います。ただ、防犯カメラで見られていたということにちょっとびっくりしました。何か嫌がらせを受けた過去でもあったのでしょうか?

帰り際の参道沿いに春日神社があったのでお詣りしてきました。

拝殿の中には、高田市の神社でよく見る作風と同じ絵馬がたくさん飾られておりました。同じ絵馬師の手によるものなのでしょう。これからはこの方の絵馬探しが趣味になってきそうです。

本来は三論宗や真言宗であった当麻寺ですが、鎌倉時代以降に浄土宗が隆盛してきて、浄土を描いた曼荼羅堂が本堂のようになっていったそうです。それ以後、東向きである曼荼羅堂に合わせ、現在のように参道が東西へと姿を変えていったということでした。

色々と謎が残る当麻寺であります。當麻氏とつながりがあるようなものは無く、戦国時代以降の事もよく分かりません。ただ、曼荼羅を売りに鎌倉時代以降、幕府の力もあり、有名になっていったということだけはいえそうです。

参道沿いにある「相撲会館」といふところも面白かったので、また別ページで書いていきたいと思います。