2019年8月:宇陀松山ぶらり

夏の日差しの強い日が続く最中、セミたちの騒々しさとカシ女の騒々しさがリンクする。騒々しく暑苦しい雰囲気から少しでも逃れる為に本日は高原である宇陀へと足をのばしました。

榛原駅からバスで大宇陀へ向かいます。停留所が道の駅の前なので、帰りに寄り道しても良いでしょう。オススメは直売所ですが、17時で閉まるのが難点です。

宇陀川を越えて公民館に差し掛かると、伝統的建造物群保存地区に入ります。何度も通った道なのに、本日は公民館の前にあった石碑に気づきました。
「天誅義士 贈正五位林豹吉郎誕生地」と書いてあります。ネットで調べたら、宇陀松山の鍛冶師の子供として生まれ、蘭学を学び、後に大砲作りとして天誅組に入隊しているのだそうな。それでこんな形の石碑なのですね。

昼ご飯は定番の「件」でいただきます。こちらの店主さんは話題が豊富な気さくな方で、いつも近所の友達の溜まり場になっているので、つい長居してしまいます。

これまた定番の牛丼です。今回はスペシャルを注文しました。牛肉が苦手な私でもおいしく頂けます。下ごしらえがしっかりしているからかと思いましたが、店主さんのお気に入り(?)の牛肉を使っているのだそうです。ということで、本日は牛肉の話しで盛り上がりました。
そうそう、当帰茶もお勧めです。久し振りに当帰茶を味わったので、また当帰料理が食べたくなり帰りに直売所で当帰を買いました。


酒粕チョコも買ったし、今日は宇陀松山の町並みを全部歩いて回る!と意気込んで出発いたします。「件」から5分ほどの所に下写真の「薬の館」なるものが建っていますが、この距離の間にも、「旧家何々の家」というのが2軒建っています。豪商の町といった景観です。城下町なので、織田氏時代には宇陀川の西側(町屋の対岸)に武家屋敷が広がっていたようなのですが、今では全く面影がありません。


「薬の館」の感想は、後日、博物館めぐりに載せるとし、先に進みます。この愛宕神社と隣にある慶恩寺辺りで「保存地区」は途切れます。神社と寺院が交互に並んでいた通りの最果てがこの神社であることからも、この先は荒廃してしまった武家屋敷か、もしくは田畑がかつては広がっていたことでしょう。

※画像クリックで拡大が見れます
宇陀川のほとりの西口関門のそばにあった案内看板です。川沿いの平地に広がった町だという事が分かります。多武峰のもろもろの小川を集めた宮奥ダムから一本となって流れてくる宇陀川を使った運輸が盛んだったそうですが、今の宇陀川を見てると「小川」なのでとてもそうは見えない。むしろ東を並走する芳野川のほうが大きい。宮奥ダム造営によって宇陀川の水量が変わったのだろうか。

再び、町屋通りに戻り、高いところに鎮座する神楽岡神社に登ります。その階段の途中に、愛染明王のお堂と、奈良県では珍しい曹洞宗の法正寺がありました。人の気配がなく無住寺院のようで、法事の会食に使いそうな離れの部屋の、黄ばんだカーテンに日差しでさらに黄色くなった色合いがそこだけを照らしているのが風情がありました。

ずっと以前に「件」に来ていた女性は、子供の頃は神楽岡神社の裏から宇陀松山城に登れたと言っていましたが、今は登れそうにありませんでした。町屋通りの東を並ぶ家々の裏庭には、ずっと宇陀松山城の石垣が続いているのです。神楽岡神社は石垣の上にあるといった感じでした。

神楽岡神社から見る、宇陀の町並です。とは言え、殆ど見えませんが、高さはお分かりいただけるだろうと思います。石垣がこれくらいの高さなんですね、きっと。

この狛犬には石工の刻銘がありませんでしたが、丹波佐吉の作品だということを後で知りました。どうりで毛並みや肉付きが優雅で、その優雅さは台座にも及んでいると思ったのでした。


しかし、この狛犬の面白いところは、石工が有名な丹波佐吉の手によるものだという事にはとどまりませんでした。奉献者が、今の大きな製薬会社の創始者たる近江屋さんだったのかもしれない、ということなのです。というのは、神楽岡神社に参詣した時点では、奉献者として刻銘された「近江屋(名前)」がどういう人だったのか何も知らなかったのですが、帰りに「薬の館」で頂いたパンフレットで「近江屋(名前)」とあり、この人じゃないか?と言うことになったのです。
今回は宇陀松山の町並みを全部歩くという目的は全くもって果たせなかったので、少しずつ訪問して楽しみたいと思います。その時に、もう一度神楽岡神社に行き、奉献者の名前を確認しようと決心したのでありました。