2019年8月:巻向ぶらり〜穴師〜

本日の目的は桜井市巻向にある相撲神社で、最近、カシ男が相撲史に興味を持ち始めている点、旬な訪問地だと言えよう。

この日も弱まることのない強烈な日差しが照りつける。アスファルトがぶり返してくる熱気の中を30分は歩かねばならぬので、えいや!と、覚悟を決めて巻向駅を降り、JR線沿いに北へ歩を進めた。

ほどなくして「穴師坐兵主神社」の一の鳥居が見えてきた。大正建立の鳥居以外はどれも古そうで、神社名の碑からは「元禄11年(1698)」と読み取れた。
殆どの石造物は台風の影響と思われるが、崩れ落ちたまま放置され、立ち入り禁止のロープが張られていた。相撲神社はこの神社の摂社となっているが、どういう経緯かは不明である。

一の鳥居の脇を通り抜け東へと歩いて行くと、山々から伸びきったすそ野を緩やかにのぼっていくような道になり、ほどなく第11代垂仁天皇の宮殿跡地に到着した。
ちなみに我が国最初の相撲が垂仁天皇の御前で行われた記事が日本書紀にあり、ここからさらに上がっていくと相撲神社がある。

宮殿跡地碑のすぐ東隣に丘陵があり、珠城山古墳群が尾根伝いに3基並んでいる。いや並んでいたというべきで、3号墳は土砂採集により消滅してしまい今は宅地になっている。その宅地のそばに宮殿跡地碑が建っているわけだが、もともとは少し高い所に宮殿があったという事なのだろう。宮殿跡地「伝承地」と紹介する看板も丘陵の奥に建っていたので、裏付ける発掘はまだ無いのかもしれない。

珠城山に登り、散策する。2号墳は土の盛り上がりが見れるのみで、1号墳が石室に入れる。近所の斉明天皇陵の開発を見て来た我々にとって、この古墳群はとてもいい雰囲気に思える。
石室は少々分かりにくい場所にあり、我々も石室探しに古墳を一周してしまうはめになったのだが、赤い鳥居が目立つ「稲荷神社の下」を目印に探すと見つかる。

1号墳では多くの装飾品・鉄工具が出土され、3号墳からは豪華な馬具が出ているのが特徴的だ(現地の説明看板による)。3基とも6世紀後半の前方後円墳だと言う。羨道が省略されていて、こぢんまりとした墳墓となっている一方で、石の加工や積み立てが洗練されていると感じる。ちなみに、石棺は橿考研の庭に移管・展示されている(「橿考研の野外展示を散策する」の真ん中よりやや下)。

古墳見学を終えた我々は、さらなる高みを目指し相撲神社への坂道をひたすらに登ってゆく。
ずいぶん高いところまで来たはずだ、と眼下に広がる町の風景を期待し振り返ってみる。山おろしの爽快な風でも吹いてくれればとても気分が良かったであろう景色ではあるが、この日はただひたすらに蒸し暑い日だったので、遠くの景色が陽炎のように霞んで見えるだけだった。

第12代景行天皇の宮殿跡地碑で休憩。相撲神社はここから200m登った所にあるが、空腹に負けて先に食事に行く事になった。これが大失敗で、相撲神社に行けなくなってしまった。食事処が意外に遠かったのだ。

第10代崇神、第11代垂仁、第12代景行が実在していたかどうかは諸説紛紛ではあるが、これら3代の天皇が営んだ宮跡や古墳群は、「纏向遺跡」と呼ばれる広大な遺跡の範囲内にある。この遺跡は、「様々な地域の物流の最終センター」(近つ飛鳥博物館の展示)とも表現され、強大な権力の萌芽があったと色めき立っている。
しかしながら、全面積のわずか2%しか調査されていないらしく、是非、纏向遺跡の発掘をどんどん進め、宮跡調査もおこなって頂きたいものである。

やっと辿りついた食事処でほっと一息をつく。写真のような光陰がくっきりとした額縁のような景色がカシ女は大好きなのである。窓枠が無かったらもっといいのに。
やや高めのランチだったが、味も量もしっかりとしていてウマかった。水分補給もして満足したのだが、再度、相撲神社への道を戻るのはめんどうだ、ということで、このまま麓の集落散策へと予定を変更した。

田畑が広がる小路をあてもなく歩いていたのだが、食事処の冷気と外気の温度差が激しく、身体がどんどんだるくなってきて熱中症のような症状になる。こんな時は無理をせず休むべし、ということで近くにあった慶運寺で休息をすることにした。
近頃、世上の温度差はやたら激しくなっており、それが熱中症の増加につながっていると思うわけなのだが、そういう科学的な報道は一切シャットアウトされている。なぜなのだろうか?

本堂の階段で日よけをし、寝転がりながら山門の少し歪んだ瓦屋根を眺めた。べたつく汗がじんわりと引いていき、時折、思い出したようにフッと吹く風に清々しさを感じる。カシ女は居心地の良いこの場所で猫のようにジッと、ただ佇んでいた。

慶運寺の境内にいくつか気になるものが存在していて、その1つが下写真の石棺仏である。
説明板では「建治型と呼ばれる弥勒菩薩を刻んだ刳抜式石棺の身」とだけしか書かれていない。ネットで検索してみたところ、刳抜式石棺は阿蘇ピンク石凝灰岩を元にしており、建治型というのは鎌倉時代の建治年間、すなわち蒙古襲来の翌年からわずか3年間の時代に作られた石仏のことのようだ。詳しい事は分からないのだが、建治型は天理周辺に多くあるようなので、これから目にすることも多くなってくるかもしれない。
私が今まで見て来た石仏は、仏の形がはっきりと分かる浮き彫りだったのだが、こちらは半肉彫りという少し彫りを浅くした彫刻である。ぼんやりと浮かび上がるその姿は、かすみながらも確かに存在するという作者の意図を示しているようにも思え、リアルさを追い求めていたという鎌倉期には珍しい仏なのではないかと思う。それが建治型ということなのかもしれない。

もう1つ気になったものが「隈田検校」という方の墓で、この立派さを考えるとこの地域に於いて大きな貢献をしたと思われるのだが、何の説明も無かったので分からない。国津神社の手水鉢にも「隈田」の名前が刻まれており、かなり有名な方だと思うので、そのうち付近の人にでも聞いてみたいと思う。

このお寺でしばし休憩した効果がでてカシ女もすっかり元気になった。身体がだるくなった時は風通しのいい所で寝るに限るのだ。

お寺の裏にはホケノ山古墳という大きな古墳があった。3世紀中ごろのと推測される「纏向型前方後円墳」と呼ばれるもので、全長80m、埴輪は持たず、二段以上の段築と葺石がある。3世紀中ごろの「石囲い木槨」と言われるものと、6世紀末に再利用された横穴式石室が後円部に存在する。下の写真は後円部の墳丘上。この下に石囲い木槨と横穴式石室があった。

もう1つ後方部にも墓があり、こちらは現在復元展示されている。木棺直葬で、壺がこのように埋葬されていたという。この壺の年代から3世紀後半以内の築造と目されている。木棺直葬という埋葬方法がこの頃にはすでにあったということは覚えておかねばなるまい。

ホケノ山古墳のすぐ隣には国津神社というところがあった。立派な拝殿や神輿に対して、今にも壊れてしまいそうな狛犬が印象的だった。
暑さにバテ加減の私たちはこの神社でも日陰でしばらく休息。裏手の森からは何故かひんやりとした風が流れてきて気持ちが良かった。

神社の由来によると、国津神社は天照大神の玉から生まれた男神五柱を祭神としていて、巻向川対岸の少し下流にある国津(九日)神社には素戔嗚の剣から生まれた三女神を祭祀しているという。
男女神を対岸で祀りあうことが原始的な信仰だったのだろうか?大和飛鳥では川に綱を通して結界を張り、女綱と男綱と名をつけていたりしたし、橿原の軽町では応神天皇の豊明宮伝承地が2つ対岸にあった。おそらく他にも似たようなことが出てくると思われるので、「対岸」ということも注視していかねばならないだろう。

この時は、暑さに負けていたので由来書きをあまり見ておらず、ただブラブラと歩いていたら導かれるように九日神社へと到着した。男女神のようなものを正面に祀っているが、左手に本殿があり、最近の開発でめっきり変わっていることが想像される。

この日は少し気温が高すぎ、途中で飲み物が無くなってしまったのが痛い失敗だった。次回はコンビニも自販機もまったくない所だという認識をもって訪れてみたいと思う。