2019年8月:元興寺・万灯地蔵会

堺に引っ越してまもなくの2011年だっただろうか。暑い夏、アパートの近所の地蔵堂を行燈で取り囲み、敷物で寛ぐ女性たちが供物を食べているのを見かけた。お地蔵様にそこまでする儀礼の存在が奇異に感じたものであった。

そういう意識が隅っこに残っていたからなのだろう、元興寺の「地蔵会」の広告にいたく惹かれた。

今日は地蔵会も兼ねて奈良ぶらりを決め込む。時計を見やるとまだ6時間ある。近鉄奈良駅から幾筋も広がっていく商店街の1つに餅飯殿センター街がある。狭い歩道に軒を連ねるそれらの店は飲食店が少なく、ウィンドウ陳列の商品や店舗の雰囲気を楽しみつつの散策が良いと思っている。通りの奥に建つ古めかしい雰囲気を残した古本屋を巡っていると、あっという間に地蔵会の時間になった。

元興寺の地蔵会は、先ほどまで緩やかな時間の流れに身を任せていた我々を引き戻すのに十分な空間であった。見よ、無邪気に荒ぶるこの表現を。見るがよい、豪胆なる筆力を、迫力を。意味などどうでもよいのだ、これが須田画伯のもっている引力なのである。

「花、心無し」だろうか。いや、「花、無心にして」と良寛の詩にあり、花は蝶を招く為に咲くのではない、時期が来たら咲くだけだという意味らしい。無邪気の表裏一体のもう一方、狂気、人の心すら超越してしまう「心無し」に胸が高鳴り、この文字を選んだような気がしてならない。
そう言えば、須田画伯は野花が好きだった。

人間の感ずる五感、空間の広がり、想像の所産、例えば極楽、地獄、そして上下左右前後と無邪気に書き殴っておいて、最後に「切断」と。森羅万象ではなく人間の感覚を軸に据えたところに、須賀画伯の人間らしさを感じる。
油絵具に吸いかけの煙草をぶちこんだパレットが、須田画伯の遺品として展示されていたのを思い出した。

禅堂に展示していた須田画伯の世界に意識を奪われれているうちに、地蔵会はクライマックスに入ろうとしていた。18時半。まだ陽が沈み切っていないのに、黒いTシャツを着た臨時バイトらしき人々がわらわらと、消えかかっている火をつけ直したり、油を継ぎ足している。

暗闇の中で灯火の回廊が幻想的にお地蔵様を照らしている広告とは、かけ離れている。まだ時間が早いのか。人が途絶えるのを待ち続けるしかないのか。

地蔵会そのものは昭和23年に復興し、荒廃していた石塔やお地蔵様を昭和63年までかけて写真のように綺麗に並べた。これを「浮図田」と言うそうだ。僧侶たちは、極楽堂で地蔵様供養を終えたのち、浮図田で水塔婆供養を執り行う。
元興寺住職を筆頭に、近隣の寺院なのか、御坊なのか不明だが様々な寺院から僧侶が集って参加しているようだ。

小雨もあったが日が沈み、万灯供養も絵になってきた。

お地蔵様、五輪塔、墓石、打ち捨てられていたあらゆる石碑に対する供養である。

取れた頭を石柱にくっ付けたお地蔵様。特に供物を捧げて丁寧に供養されている。

首無し地蔵様にも燈明皿が添えられている。庭木の蔭に隠れるように、静かに捧げる供養もまた良い。

まだまだ奉納合奏やお琴演奏などこの後も続くのだが、須田画伯と地蔵会が見れて満足し帰宅する。
元興寺の地蔵会は昭和年代に入ってから復興した新しいイベントではあるが、背景に、周辺の町における地蔵会(地蔵講)が盛んである事が挙げられると思う。地蔵講だけではない、富士講、観音講、春日講など、現在では途絶えているものも含めて、記録に多くの講が営まれていたことが見えると言う。
とりもなおさず、荒廃した時期もあったものの「元興寺」という求心力が存在してこそ、町々の「講」の活気が長く続いたであろうし、その活気が元興寺の「観光としての地蔵会」にも還元されていると感じたのであった。