2020年2月:京都御所ぶらり

本日は、なかなか訪れる機会の少ない京都をぶらり散歩してみます。
まだ2月で本来なら寒い時期なのですが、季節外れの心地よい暖かさ。花の都へ訪れたこともあいまって浮ついた気持ちになってしまいます。
「京都の町の人たちもさぞ浮かれていることだろう」と、周囲を見ながらのんびりと寺町商店街を北へ向けて歩いていましたが人通りは少なかったです。寺町商店街も観光地の1つではありますが、たくさんの人が訪れるところではないようでした。

寺町商店街通りにある、矢田地蔵尊や本能寺にお参りをし、商店街を抜けた後もずっとまっすぐ北へ歩きました。
やがて右手に見えてきたのが「下御霊神社」です。どういう御霊を祀っているのか気になり説明板を読んでみると「貞観5年(863)に神泉苑で行われた御霊会で祀られた、崇道天皇、伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麻呂に吉備聖霊、火雷天神を加えた八座、即ち八所御霊を出雲路の地に奉祀したのが始まりである」と書かれていました。
知っている名前がいくつかありますが、知らない人物もおり、特に天神と聖霊という別格の名前をいただいている二人が気になります。火雷天神は菅原道真としても、吉備聖霊とは一体誰のことだろう?

下御霊神社のホームページには「吉備聖霊とは六座の和魂で、火雷天神とは六座の荒魂の事であろう」と書かれていました。しかし、なぜそのような名前をつけているかの説明はありません。和魂や荒魂であったとしても何らかの意図があって名前を付けたと思われるので、もう少し詳しく聞かせてほしい気がします。
こちらの神社の見どころは、本殿の右手、境内の隅にひっそりとたたずむ蔵であります。
説明板によると「宝永の大火(1708)の後に建てられたと目され、天明の大火(1788)ではこの土蔵を締めることで東山天皇・霊元上皇より賜った貴重な祭器が無事でありました」とあります。

今にも崩れて落ちてしまいそうな建物ですが、それが重く苦しいような雰囲気をうみだし、御霊を鎮めるに値する神気を発しております。門もところどころ剥がれており、むき出しの土が宝物を守ってきたことを物語っています。

本殿から拝殿にかけては雨漏りでもするのか、屋根の上にシート状のものがかぶされております。
看板には修復を計画していると書かれていて、一口千円からの御奉賛をお願いしていました。本殿が京都市指定文化財とされており、土塀および末社は京都市景観重要建造物となっているそうです。

土塀もかなり傷んでおりますが、個人的にはこのほうが好きであります。しかし、崩れては元も子もないのである程度の修復は急いでほしいと思います。

下御霊神社を後にしさらに北へ、しばし歩くと左手に寺町御門が見えてきます。ここからでも御苑に入れたのですが、せっかくなのでぐるりと回って乾御門より入場しました。どの門も似たような造りだったのであえて見る必要も無いかもしれません。

門をくぐり中へ入ると砂利が敷き詰められた大きな道があり、昔の公家屋敷があった区画は芝生になり、みなさんベンチに座ったりして寛いでおられました。
幕末には200軒も公家屋敷が並んでいたそうですが、明治2年(1869)の東京遷都に伴い御所は荒れてしまったそうです。明治10年(1877)に整備の沙汰を下しているので、たった8年で荒廃してしまったということです。公家の人々もすべて東京にいったわけでもないでしょうし、管理人くらい置いてなかったのでしょうか?

平安京の栄華を極めた時代があり、武家の勃興により没落した時代がある。その時々の風景はいかようであったのでしょうか?時の権力者に寄りそい時代に翻弄される皇室。現在では国民の総意に抗う術もなく、このように皆様方に寛いでもらえる空間を演出しているのであります。

京都御苑から京都御所への入口は清所門のみとなります。
清所門において皇宮警察?に荷物チェックされ、入門証をもらいます。下のマップを見てもらえばお分かりになると思いますが、見学ルートは決められております。
※クリック拡大

上写真が清所門です。本来は勝手口だったそうで瓦屋根となっております。身分の低い人々が足で踏み固めて作った瓦のような汚いものの下を、高貴なお人が通られるということが許されざる行為だったとのことです。
この写真は建礼門であります。こちらは正式な門なので檜皮葺きとなっています。これは地面に落ちずに作られているので高貴なお方もくぐっても大丈夫なのだそうです。
この話だけ聞いても公家って面倒だと感じますよね。

建礼門は南面する正門で、ここをくぐると下写真の承明門があり、さらに奥に紫宸殿という御所の中で最も格式高い正殿があります。
承明門が瓦なのが気になって仕方ないですが、細かいことはおいておきましょう。

承明門をくぐった先の紫宸殿であられます。安政2年(1855)の造営でありますが、伝統的な儀式を行うため平安時代の建築様式で建てられていて、明治、大正、昭和の天皇の即位の礼はこの建物内で執り行われたそうです。
建築様式はよくわかりませんが、空間を大きく使っていて特別な場所であるということがよくわかります。遠くからしか見学できないというのも神聖な感じがします。

紫宸殿を出た後、宮内庁の職員が御所に関して解説しているところに出くわしました。ちょうど高御座の解説が終わったところで、20人ほどの観衆が熱心に聞き入っていました。
私もその方々に交じり、次の檜皮葺きの実物模型の解説を聞きました。檜皮葺きは、檜の皮を使い細かく何枚も重ねていますが、分厚いのは目に見えている部分だけで奥は薄く作ってあるということで、案外とこだわりが無いのに少し驚きました。

次は紫宸殿の裏にある清涼殿を見るのがルートになっているのですが、現在は檜皮の葺き替え作業中とのことで、令和4年の3月まで見れないようです。こちらは紫宸殿同様に安政2年(1855)造営で平安時代中期の建築様式が用いられています。紫宸殿では遠くからしか見れませんでしたが、清涼殿は近くまで行くことができ、悠久の平安に思いをはせれる場所であったので見れないのが残念です。

続いて小御所会議で有名な小御所と御学問所を見学。この二つの建物をつなぐ廊下があるのですが、そこにこだわりの趣向がなされていました。
写真の正面に白壁に沿った廊下がそれであり、下に庭を掘りさげた通路が作られております。そこは身分が低いものが通るところなのです。公家の高位のものや皇族が通る廊下と同じところを通るなぞけしからん!ということであります。
このような事をしていた人たちが、現在では「どうぞご覧ください」となっていることに時代の不思議が感じられるのではないでしょうか。

御常御殿を通ると、奥は庭になっていて立ち入り禁止なのですが、その庭の一角に地震殿という建物があります。ここは地震の際に天皇が避難する場所になっていて、こけら葺きという非常に軽い屋根で作られております。天皇であれ天災の時にはこのような質素な建物で隠れていなくてはいけないのです。

最後の見学場所は御台所跡です。ここにも本来建物があり、全て廊下でつながっていたのですが、先の大戦の時に類焼防止のために取り壊したのだとか。

そして、ここから北東、鬼門の方角に比叡山がぽっこりと見えるのです。王朝鎮護のための山とされていたというのはここから見るとよく分かります。
これで見学は終わり皆さんは散り散りに帰っていきます。少しいかめしい顔の宮内庁の解説員も破顔一笑で観衆と会話を楽しみながら帰途へとついておりました。
こういう人として自然な行為にも時代の不思議さが如実に現れております。身分の境があった当時では思いもつかなかったような光景を私は目の前に見ており、御所の中だからこそ驚きを禁じえませんでした。
その反面、私たちは心の中では境を持とうとしていると感じるのであります。それはコロナウイルス騒動だけでなく、大きな社会的問題が全体に降ってきたときに表面に出てくるのだろうと思います。

時代は変わり、人は変われども、世の本質が変わらない、そういう事を気づかせてくれる京都御所。みなさまがたもこの場所において、今、昔、未来を感じてみてはいかがでしょうか。