2020年3月:桜井ぶらり

コーヒー買い出しに桜井へ。いつもの珈琲倶楽部での井戸端会議を早めにきりあげ、ぶらり散歩。
まずは昼飯に、天スタから独立した「ザ・スタミナラーメン」へ。2、3回食べた事があったのですが、豆板醤が少し変わっていてなかなか良いと思っていたお店です。豆板醤は以前と同じでうまかったのですが、麺が少し細目なのが好みでは無かった。少し記憶があやふやですが以前のほうが好みだったかな。

午後から安部山城と土舞台。麓の車道から土舞台へと登っていくとかなりの急坂です。地形を見渡すと尾根の間の谷が車道になってしまっていて、谷から一気に山の頂上部へ登っていくような感覚なのですが、周囲が宅地であるだけに突然の急坂にびっくりしました。
安部山城は室町期〜戦国時代にかけての山城、土舞台は聖徳太子が伎楽舞というものを児童に伝習せしめたところらしい。遺構というほどのものではなく、山に平坦地があるといった感じでした。

続いて立ち寄ったのは土舞台の中腹にある「艸墓古墳」(くさはか、変な字は「くさ」と読むようだ)。家の間からこんもりとそのお姿をさらけだしておりますが、ここには私有地があるので見学ルートが決まっているのです。

南北へ走る麓の車道から、西の安部文珠院へ入る道の分岐点に、さらに住宅地へと入る細い坂道があり、そこから入るしかないのです。文珠院へ行く道も細いことから、車の場合は文珠院の駐車場か麓の車道の歩道に乗り上げて止めるのが無難かもしれません。

坂道を少し登ると行き止まりになりますが、そこから家の脇を通って入っていく道?があり、その手前には道しるべも建っております。私の場合は近所のおじさんが教えてくれました。

狭く険しい道の先には、こんもりと盛り上がった土山とポカっと大きく口を開けた石室がありました。説明板によると「長方錐形の方墳で南東に向け開口する両袖の横穴式石室」とありますが、正面から見るととても方墳には見えません。

巨石が持つ圧迫感もありましたが、私は知らず知らずのうちにその広げられた大きな口の中へといざなわれていました。入って2mもすると玄室があり、そこに竜山石を使用した石棺が安置されております。石棺の前まで来て我に返り、周辺を観察しはじめます。
閃緑岩についている石切り跡らしき線状のものを見ていると飛鳥地方と同様の石材師が造ったものと思われます。竜山石の家型石棺を使用していることから考えてみても大王クラスの人物の墓ですが、被葬者と目されるこの周辺の豪族安部氏とは一体どのような豪族なのでしょうか?
説明板には古墳のサイズばかり書いており詳細は分かりません。石棺がデカいから石室は後で作ったと書かれていますが、少し羨道を掘り下げればギリギリ入りそうに見えました。

石棺の裏側には盗掘穴らしき穴が開いていました。少し狭いように思えますが、これで事たりるのでしょうか?盗掘については資料が残らないでしょうから、考古学的に解明してほしいと思います。

石棺の前面には文字が書かれ、少しだけ浮き上がり黒くなっています。ほとんど読めませんが「武運」の部分と「二月」の部分は分かります。墨で書いているように見えるので比較的新しいのかもしれません。
こういったものの解説も予測でもいいので書いてくれると面白いと思います。

こちらの石室では、壁面の岩と岩のすき間に三角(▽)の石を挟んでおりました。あまり見たことが無い形式なので安部式石組みとでも勝手に名付けておき、艸墓古墳を後にしました。

次にやってきたのは、艸墓古墳と同じ阿倍丘陵上のやや南にある「谷首古墳」です。安部文珠院のすぐ南側にあり、付近は宅地として整備されていますが、古墳の上に八幡神社があるので遠くから見ると社叢で茂っていて分かりやすい場所です。

こちらの説明板は艸墓古墳よりも綺麗で新しい。「方墳で墳頂部に八幡神社がある。南へ開口し、両袖式の横穴式石室だが、東側の袖は非常に狭く、片袖式ともいえる。製作年代は6世紀末葉から7世紀初頭と推測」と先ほどより詳しく書かれていました。
谷首古墳はご覧のように入口がへしゃげており、アート感満載の古墳となっています。
狭い入口から羨道を腰をかがめ通っていき、すごく背の高い大きな玄室へとたどり着きます。奥の壁は巨石を2つ、横壁は2つの上に平たい巨石を1つ乗せております。下から上へ狭まっていくタイプの石室で、艸墓古墳とは形式が少し違います。
この玄室には礫が敷かれていて、凝灰岩の細片も見つかっているそうで石棺がおさめられていたと目されています。
この古墳の羨道部分にも三角の石が挟まれており、少し時代と形式が違うけども、石組みの補強の仕方が同じなのだと分かります。

続いても南へと進み「コロコロ山古墳」へ。ここも谷首古墳と同様の阿倍丘陵で、新興宅地の一部を使用し、柵に囲まれて大切に保存しております。
柵の中へ入ると古墳らしい古墳の入口が口を開けて人々が訪れるのを待っています。

しかし、中へ入ってみるとかなり変なのです。その違和感の正体は、コンクリート製の天井なのです。説明板には「この地へ移築し、天井石が取り去られていたのでコンクリート屋根をつけた」と書かれています。6世紀後半の古墳らしく、先ほどまでの古墳に比べてそれほど時代が変わらないにも関わらず、石組の粗さも目立ちますし、三角状の補強はされておりませんでした。安部氏ではないのかもしれません。

コロコロ山古墳の東すぐの場所には「メスり山古墳」という前方後円墳があります。「4世紀のもので、箸墓古墳や桜井茶臼山古墳などの大型前方後円墳と一系列をなすものと位置づけられ、各地の政治集団の連合の頂点にたつ首長墓と考えらる」と、このように説明されています。

後円部は写真のように二段階で造成されていて、葺石も確認できます。この墳丘を円筒埴輪列がめぐっていたことが検出されていて、前方部に向けてその円筒埴輪列が伸びていたようです。
後円部の墳頂では竪穴式石室が検出されており、盗掘を受けていたがいろいろと副葬品が出土したらしい。現在ではここに石室があったということを示すために天井石の部分がさらけだされておりました。

新興宅地のあちこちに保存された古墳群。まるで宝さがしのように歩き回り、石室を見つけた時には感動の雄たけびをあげる。ポケモンに頼らなくても、桜井市に限らず日本各地には歴史のつぶてがあちこちに隠されているのです。これらを見つけに今日も明日も「stayout」してみましょう!