2019年2月:大和高田ぶらり

かねてより目をつけていたお好み焼き屋、今ではすっかり珍しくなったお客さん自身で焼くタイプで、それが感動とトキメキが出会うお店なのだろう。「高田市駅」の真向かいにあります。
私はキムチ豚、相棒は「カチン焼き」というものを注文しました。餅とコーンが入ったお好み焼きで、触感の違う2つの材料が絶妙に相性が良かったとのこと(相棒談)。
私はカエシが苦手でも果敢に挑戦し、ぐちゃぐちゃになったのをコテではふはふ口に運ぶ。

お腹を満たし、最近はまりだしたコース(南大阪線高田市駅〜大阪線高田駅の区間をぶらりする)をぶらぶらしていきます。無作為ではありません。竜王宮とも呼ばれる石園坐多久虫玉神社を目指します。意外に大きな神社でした。石園は「いその」と読むのだそうで、この辺りの地名も「礒野」になっています。そこにおわします「多久虫玉神」と言う事なんでしょうが、祭神は「建玉依比古命・比賣命」と書いているので、竜王宮から神仏分離になった時にどうこうですり替わったのかもしれない。
まったく海や沼もないこの内陸に「礒」や「竜王」と名づく謎をわが胸に抱きながら、境内に入っていく。

社務所と思われる建物に続く渡り殿にて。物凄い数の絵馬に見とれてしまう。が、すべての絵馬のモチーフと絵の描き方が、先日見に行った高田城近くの八幡神社奉納絵馬と同じであることに気づく。
徒歩15分ほどしか離れていないこの2つの絵馬は、明らかに同一絵馬師によって描かれたもので、奉納数から見ても地元に愛されていることがうかがえます。

次は高田城跡を目指して北東を目指します。新興住宅街、寂れてしまったいくつかの商店街を通り過ぎていると、真新しい区画の一角に風情の良い神社がありました。八王子神社です。
※八王子神社の境内から新興住宅地を撮った。真新しいお家がいっそう、神社を異空間であるかのように引き立てている。

中を覗き込むと数多くの絵馬とともに、新調した提灯を収めた長持が見える。新調した日付は「平成14年3月」とあり、まだまだこの神社の信仰は生きていることが確認できて少し安心を覚えた。しかしながら、絵馬のモチーフは何なのだろうかと考えながら隙間から覗き込むも、よく分からない。
九十九王子と言い、十二所と言い、熊野信仰は「数字を宣伝文句」に使う事を好まれていたのではないかと思う。そのため、この八王子神社も熊野信仰と関わりが深かったのではと勘ぐっている自分がいる。
数字と言うと記憶に残りやすいように語呂合わせで使われている事もあるが、1日を数字(時刻)で区切ることにより季節によって日の出の長さが変わるというイレギュラーの排除や、その数字に合わせた行動様式・生活様式・思考様式が形成されていく。熊野信仰はそれをうまく利用しえた宗教団体なのでは、とでさえ思うのである。

八王子神社から歩いて10分ほどの所、小高く盛り土したような丘に高田城跡の碑と看板があります。説明看板には「城址は現在のJR桜井線と和歌山線にはさまれた常光寺池付近一帯と考えられます」とありますが、看板が建つこの地も常光寺付近一帯なんですけどね。まるで違うところに城址があるかのような書き方に違和感があります。
そういえば、少しだけ小高いだけの平城なのに、布施氏が攻めあぐんだ難攻不落の城で、堀がとても大きかったという記録が残っていると読んだ事があります。もしかして常光寺池のど真ん中に城址があるのでしょうか?

「高田城址碑」と見出しを掘った碑には、「高田城址は往昔、當麻氏の掾(?)を以て築く所なり。當麻氏出自、用明帝子麻呂古親王四世孫真人国見子孫世 云々」と高田氏の由緒から書き起こしていますが、ところどころ読みづらくなっています。
そこで注目されたいのが、碑を取り囲む垣根の石柱です。1つ1つの石柱に、碑の建立に尽力のあった方々のお名前が彫られているのだと思うのですが、すべて苗字が「当麻」となっています。當麻高田氏の子孫なのでしょうか?當麻高田氏(本家)は戦国時代の末に滅亡しているそうなので、もしかしたら初期に分派した高田市有井の當麻有井氏(當麻氏と書くのが正しいか?)の系統の方々なのかもしれません。

常光寺の真ん前にはJR和歌山線が通っています。二代目の當麻高田氏が草創したお寺で、元々は高田城内に位置していたとのこと。現在では、お寺の周りは古い墓石が、隣の区画はガラ空きで新しい墓石がボツボツ並んでいます。墓地経営に乗り出したところということなのでしょう。我々は、古いほうの墓地を散策していきます。

興味深かった墓石をご紹介していきます。
まずこちらは、「伝」八百屋お七のお墓です。井原西鶴の「好色五人女」に出てくる女主人公の1人で、実際にあった(とされる)事件を取材した小説なのですが、江戸を舞台にしているのでここにお墓があるのは不自然な事です。説明看板には「当地での事件であるが、井原が江戸を舞台にして書いた」とありましたが、16歳の少女が放火するというセンセーショナルな事件は当時の巷間にも広く流布していただろうし、またそれを題材にした小説、歌舞伎、浄瑠璃、広告によって新しい物語となって再び流布していき、伝説のようになって各地で定着していった形の1つなのだと思います。

五輪塔が高田城主當麻三河守為長公之墓です。五輪塔の隣にあるのが有名な「三界萬霊碑」で、わずかに「天文二十四年(1555年)」と刻まれているのが読めます。滅亡した城主や一族郎党を慰めるために建てられた碑なのだそうです。この区画には古い墓石が並んでいて、年号を読むのもままなりません。

あとは、明治二十年代建立の墓石で、十字架が刻まれていたのでキリシタンだと思われるものもありました。明治初期にキリスト教禁止令が解除されたので堂々と十字架が刻めるようになったとは思いますが、あえて人名を刻みつけているのは「何かの殉死だったのだろうか」と想像させられます。

常光寺の墓石を1つ1つ眺めるのに時間が取られすぎてしまったので、次回は常光寺池を散策してみたいと思います。