2019年3月:橿原 軽島豊明宮跡

近鉄橿原神宮前駅から飛鳥駅に向かって南下する線路と並走する国道169号線は、車の往来が激しく殆ど歩道がついていない。そんな国道から東の脇道へ上がって行った一帯が「大軽町」で、周りを見下ろせる高台にあります。

旧家のような立派な家が密集する薄暗い小路を過ぎると、新興住宅地が広がり、広く仕切られた家と家の隙間あちこちから光が差し込んでいるせいか、明るく感じられます。

開発された新興住宅とまだ残る田畑の間をくねくねと道にしたがって歩いて行くと、春日神社が見えてきた。この鳥居は「薬種商○○○○(○には氏名が入っていた)」の奉納による、と刻印がある。一瞬「菜種」に見えましたし、見慣れない職名に興味津々。そういえば、富山の薬売りが有名ですが、奈良にも薬の町と言われている所がいくつかあるのを思い出しました。

春日神社は、応神天皇が営んだ「軽島豊明宮」の跡と言われています。類似の伝承地として、近鉄南大阪線を挟んで反対側に建つ八幡神社も「徳川時代に応神天皇の軽の豊明宮址とされ、明治時代には豊明神社と呼ばれていた」と説明看板があり「祭神は応神天皇」だとしていました。(過去の記事を参考)。残念ながら今来ている春日神社の説明看板は痛みが激しく全く読めませんでした。

全国各地に応神天皇を祭神とする神社、特に八幡神社は多いのですが、この春日神社も「軽島豊明宮」の跡と称するからには応神天皇を祭神としているのだろうと推測されます。

コンクリートと鉄鋼の扉で固められた、ちょっと風情がない拝殿。倉庫かと思ってしまった。覗き込んだ本殿はなかなかいい感じだったのに、防犯上でそうしているにしても残念な外観だと思います。

河内王朝系統と言われ、古墳も大阪府羽曳野市の誉田山古墳に比定されている一方で、この奈良県橿原市の春日神社の周辺にも応神天皇の伝承がいくつか残されています。例えば、孝元天皇陵の周濠であった剣池を開削した石川池もそうですし、さきほど挙げた八幡神社もそうです。そう言えば、応神天皇の伝承地は、孝元天皇の伝承地と重なるんですよね。

緑文字が第8代孝元天皇伝承地で、黄文字が第15代応神天皇伝承地です。
春日神社と八幡神社の間のくぼみには、応神天皇の時代は旧高取川(水色の点線)が流れていたと思われ、向かい合うように春日神社と八幡神社が建っているのも興味深い。偶然なのだろうか?

春日神社の隣にある法輪寺です。法輪寺の由緒はよく分かりませんが、大軽寺の跡地に建っているのだそうです。大軽寺は、孝仁天皇や応神天皇からかなり降る時代の創建になると、説明看板にあります。
旧高取川が西へ付け替えられることによってその川跡に、「下つ道」が藤原京へ、そしてやがては平城京へとまっすぐに伸びるよう敷設されたのではないかと思います。
一方、剣池の北側を通る地図上の紫色の線が山田道と呼ばれる大きな道で、山田寺(蘇我倉山田石川麻呂の創建)、厩阪寺(藤原氏の氏寺)、豊浦寺(蘇我入鹿の創建)などと、まさに白鳳時代を代表するお寺が並んでいました。
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下つ道と山田道がT字に交わる辺りの一帯は、市場がたち大変賑わったであろうと言われています。それが三大市場、海柘榴市、餌香市とならぶ「軽市」として今も地名に「大軽町」と残されています。

宮として栄え、市場として栄えた大軽町。現在では頻繁に往来する車のほとんどが立ち止まる事はなく、丈六という交差点名や見瀬丸山古墳に一瞥をくれる程度です。私たちも何気なく通っていた場所ではありますが、ふと立ち止まってみると面白い歴史の1ページが存在しているものです。