2020年2月:大和郡山外堀ぶらり

2019年夏に立ち寄った大和郡山の地。その時、柊イワシなるものを発見し「節分の時に飾ったのが残っている」という話を聞いた。それならば節分の時期には町中が柊イワシを飾り、大そう映えるのではあるまいかと思いその日を心待ちにしておった。
そして・・・ついに待ちに待ったにその日がやってきた。私の記憶に残る、淡く、そしてどこかはかなげなイワシの頭と、大和郡山に対する望郷の念が、心を激しく浮ついた気分にさせるのであった。(天孫降臨)

近鉄線は郡山城と城下町の境目を走っており、近鉄線より西が郡山城、東が城下町になっています。ですので、駅を出て西へ向かうと上り坂で東へ向かうと平坦な道になっております。
近鉄郡山駅を出て西へ行くと御覧のように上り坂になっていて、元々は山であったことがうかがえると思います。
この道を登って行くとカトリック教会があり、そこには長崎の浦上崩れで捕まったキリシタンの墓碑が建てられています。南島原に行ったときに浦上崩れという騒動があったことは見ましたが、まさか大和郡山の地に移送され、幾人か亡くなっているとは思いもよりませんでした。

キリシタン墓碑に祈りを捧げ、進路を北へとります。北へ向けても上り坂になっていて、ここは法光寺坂という名前がついています。この坂を登りきると目の前に現れるのが黄檗宗・永慶寺です。

郡山城の中堀のすぐそばにあるこのお寺は柳沢家の菩提寺で、郡山へ移封となった際に柳沢家と共に移って来たそうです。柳沢藩主の別邸の要素もあったそうで、当時は大そう力を持っていたことでしょう。
黄檗宗独特の山門が目立ちます。このような派手な色使いは中国でよく見かけますが、日本では渋い色合いが好まれますよね。この宗派をわざわざ選んだ柳沢は意外と派手好きだったのかもしれませんね。
境内の分社や何故か島津家の家紋がある柳沢家のお墓にお詣りをし、豪華なお堂や庭園を眺めたりして、新鮮な空気が流れる冬の陽気を草花と共に楽しみます。柊イワシのように哀愁に浸ることはできませんが、これも良いものです。

この界隈は新興住宅が多い為か、ここまで歩いて柊イワシは1つも見ませんでした。仕方ないので東の城下町方面へ向かい、坂を降りていくことにします。
写真の坂は五左衛門坂と名付けられていて、下りきると近鉄線に突き当たります。
駅前の踏切を東へ渡り線路沿いに南へ歩いていると、ところどころ食堂があり今回は沖縄料理カフェの「Farve」というお店で昼食にしました。
骨付き肉ソバとゴーヤ定食。ゴーヤが全然苦くなくてびっくり。スパムの刻みも入っていて聞いてみると、普通のスパムは体に悪い成分があるらしく、少し高級なスパムを使っているとのことでした。沖縄ソバもピロピロとした食感がおいしかったです。量的にも満足。

昼食後は東岡町方面を見学します。昨年と同じように線路沿いの細い路地を南へと歩いていると・・・ついに・・・ついに・・・あの想い続けた柊イワシ・・・涙の柊イワシ・・・あゝ柊イワシ・・・・。を発見しました。
本日1つ目の柊イワシに興奮を隠せません。この東岡町周辺なら柊イワシの園があるのではないかと喜々として付近を探索します。
・・・しかし、見つかったのは昨年同様に2軒のみでありました。昨年御婦人がおっしゃっていたように「もう最近はやる人おらんわ」といった状態なのでしょうか。私は1つの伝統が失われてしまう事を思い、邪気が入らないように必死に侵入者を阻止しているイワシの頭を見つめ、ただ涙するのでありました。

東岡町周辺を歩いていると昨年とは違っている場所もありました。
写真のように隣の建物が無くなり、壁が剥がれ落ちてむきだしになっている廃屋の遊郭があり、また、空き地に溜まった廃材も綺麗に撤去されていました。

柊イワシだけでなく文化は常に失われ続けているものだと気づかされます。
そんな中、かくも頑丈に作られた金庫だけが、当時の面影を残し続けていくのかもしれません。

ここからは悲しい思い出に別れを告げ、大和郡山の外堀を巡ってみたいと思います。
「堀」というと平坦な場所に作られるイメージがあり、坂の多い郡山には似合わないのではないかと思っているので、どのような堀であったのかを見てみたいのであります。
東岡町から西へ向かい線路を渡った処に「矢田筋裏池跡」という外堀があります。矢田筋裏池という名前からして堀の跡は池のように使われていたのでしょうか?

ここの外堀には近鉄線の下をくぐり抜ける堀状のものが残っております。
水路のようなものがここに水を流し込んでいるようなので、現在は排水路のようにして使われているのでしょう。

線路を渡って反対側にも堀状のものが伸びているのが見受けられます。ただ、堀というにはあまりにも細く浅いので、当時をしのばせるようなものではありません。

矢田筋裏池跡の外堀と同じ道沿いに西へ向かい坂道を登って行きますと、病院の裏手に「箕山裏池跡」という外堀があります。
ここは先ほどと違いまったく面影はありませんが、高さが10mほど高くなっていて、かなりの落差があったのだと気づきます。そして、この付近は箕山と呼ばれていたことも分かりました。

さらに西へ進むと大納言塚があり、この付近が箕山の頂点であるようで、西や南へ向かっては下り坂になります。
大納言塚の西の国道を越えると、ここにも「箕山裏池跡」という外堀があります。こちらは細い水路が残っておりますが、これが名残なのでしょうか。

そこから北へ行くと「西矢田辻番所跡」という外堀が見えてきます。桜の木?やでかい岩のようなものが置かれこの土地の人に大切に使われ、ゴミ捨て場としても使用されているようです。

ここで付近の御婦人に「昭和30年頃に県の促進住宅ができて、ただの山であったのが住宅地に変わってしまった」と教えていただきました。

ここで外堀巡りはお開きにし、いくつかの疑問を書き記しておきます。
ただの山であったとしても城内としてどのように整備されていたのか?
裏池と称されるように、後に池として使用されていたのだろうか?それとも堀が池だったのだろうか?
外堀の外にあったと思われる東岡町の遊郭は庶民派で、外堀の中にあった遊郭は金持ち派だったということは、城内と城外で差別意識のあった現れなのだろうか?

このような事を頭に巡らしつつ、最後は金魚資料館を見学して家路につきました。
金魚資料館は常時開放しているので、金魚も資料館も勝手に見ていってもいいようです。金魚の種類が分かる人には楽しめるところだと思いますが、よく分からない人にはつまらないかもしれない。

哀愁の香り漂う柊イワシ、廃屋となってしまった遊郭。そして、今は見る影もない外堀、大和郡山には危うい美意識が存在している。
柳町商店街も同じような美意識のうちに存在し、このような少し危険な美しさに訪れる者が魅了されているのだろう。
私もまた訪れるのだろう、柊イワシが無くなるその日まで。